2022.03.28 10:00今年度、最初で最後本日、函館山に登って海を見下ろすと、摩周丸の横に大きな船。 市のホームページにある「令和3年度のクルーズ客船入港予定」で確認したら、総トン数2万2472トンの「にっぽん丸」のようだった。 予定表には、本日のにっぽん丸の後にも先にも何もない。年度末3日前にして、ようやくのクルーズ船初入港。 平成30年に、4万トンクラスまで対応というこの若松クルーズ埠頭の暫定供用が開始、その後、工事は続き最終ゴールの11万トンクラス対応にこぎつけたものの、コロナのおかげで冬眠状態。 市ホームページには、令和4年度のクルーズ客船入港予定も載っていたが、「にっぽん丸」3回、5万0444トンの「飛鳥II」が2回、2万6594ト...
2022.03.26 21:10令和で途切れた「ぎおん小路」、袋小路久しぶりの祇園小路、何ともう、すぐ先が、広い駐車場にふさがれている。確か市電通りまで、小路は続いていたはずだが。これでは、先は見通せても袋小路だ。
2022.03.26 14:10電停を撮る。日常の記録星野勲さんによる平成函館の写真集を編集しながら、つくづく、当たり前の風景を撮っておく、ということの貴重さを感じた。そう感じさせた1つが、平成16年7月に撮られた函館駅前電停。
2022.03.25 03:56写真も記憶があってこそ星野さんの写真には、イカ釣り船の漁り火を撮ったものもたくさんある。「遊覧船から撮れたのですよ」当たり前のように、かつ懐かしそうに、そうおっしゃる。時代を感じる話のようだが、今もベイエリアから「観光遊覧船ブルームーン」というのが出ていて、北は七重浜沖から南は旧寒川集落沖までぐるっと回るナイトクルーズもあるようだから、「遊覧船から漁り火が」というのは、近年のイカ漁不振のおかげで、昔話に聞こえるのかもしれない。さて下は、私が平成21(2009)年6月に撮った写真。
2022.03.23 09:24平成の行方星野勲さんの新刊『平成函館忘れない』に大きく使用した1カット。平成13(2001)年のベイエリア、函館西波止場裏の風景である。片や下の写真は令和4(2022)年3月11日に私が撮った。20年も経てば当然、景色はゴロッと変わる。
2022.03.23 06:38街角の娯楽の残り香昭和の時代、パチンコというのは、ほんのささやかな、日々の仕事帰りに、誰も気軽に楽しめるような国民的娯楽で、パチンコ店にしても、「パチンコホール」と呼ぶあたりがふさわしい小ぶりな店舗が多かったように思う。パチンコはいわば「街角の娯楽」だった。それがいつの間にか、パチンコ店は広い駐車場を備えた大規模になり、立地も郊外のロードサイドが主流となっていったようだ。
2022.03.23 04:41渡島大野駅から新函館北斗駅へ函館市内から遠くて有名な北海道新幹線・新函館北斗駅。周辺一帯には、見通しの良い広大な平野が続きます。駅そのものの歴史は古く、明治35(1902)年に北海道鉄道本郷駅として誕生。その後、北海道鉄道の国有化、路線再編などを経て昭和17(1942)年に函館本線の渡島大野駅へと改称、新幹線の開業まで、その駅名で親しまれてきました。もう渡島大野駅時代の面影は跡形もありませんが、蒸気機関車の時代は転車台(機関車の向きを換える装置でターンテーブルとも呼ばれた)も備えた立派な駅でした。星野勲さんの写真で、移り変わりをご覧ください。●昭和31(1956)年 『大野村から大野町へ』より
2022.03.22 07:35アジサイ屋敷当たり前のものなのに、仰天させられる。それがまた痛快で、私には函館の魅力となった。その最たるものがアジサイだった。関西人の私にとって、どう考えてもアジサイは梅雨の花。(花に見えるのは萼であり、正しくは花ではないそうだが)なのに函館では夏が過ぎ、ものによっては秋が終わろうとするころまでアジサイが咲き誇る。北国とはいえ、何という季節のズレだろう。そして剪定しないのがこちらの流儀なのだろうか、ドライフラワー状態で、多くは姿をとどめたまま冬を越し次の季節に新しい花と同居する。10年もこちらに暮らしていると、さすがにもう季節のズレには慣れたけれど、いまだ鮮烈に覚えているのは、観光銀座の港ヶ丘通りのアジサイ屋敷だ。(下の写真は2008年9月の末)
2022.03.21 01:16市電と都電、市電に都電函館市電と東京都電は縁がある。線路の幅が同じなのだ。日本の鉄道の線路幅は圧倒的大多数が1067ミリ。また新幹線の線路幅は1435ミリという世界的に「標準軌」と言われる寸法だ。函館市電と東京都電のほか、わずかの路線が1372ミリ。この線路幅は馬車鉄道時代の標準であり、函館市電も東京都電も、その前身は馬車鉄道だった。昭和9年、函館に世界3大大火に数えられる大火災が発生する。市電(正確には当時は私鉄の路面電車)も車両が丸焼けで運行不能に陥るが、線路幅が同じの東京都電から、車両の提供を受けるのだ。時は流れ平成の時代。確か今から12年前の平成22年まで、東京都電のお下がり車両が函館市電を走っていた。
2022.03.20 05:58銀座考日本全国、銀座の名の付く所は少なくない。温泉街熱海に熱海銀座、白壁蔵の町倉吉に倉吉銀座、挙げていけばキリがない。町並みが東京銀座と似ているというより、東京でいう銀座にあたる中心街。ローカル色が色濃くにじみ、それぞれの繁栄の歴史や「かたち」を物語る。私が函館に来た10年ほど前は、市内に「銀座」の名の付いた所は2つあった。
2022.03.19 06:59この本に載せた、唯一の昭和函館の繁栄の基礎を築いた、淡路島出身の高田屋嘉兵衛。地元淡路島でも、当然、郷土の生んだ偉人として尊敬の眼差しを注がれ続けていることと思う。実際に昭和60(1985)年、大鳴門橋が完成したことを機に、嘉兵衛の持ち船だった辰悦丸を復元するという偉業を、淡路島の造船所が自費で成し遂げた。そして翌年、江差からの呼びかけが発端となり、何とも粋な取り組みが実現される運びとなった。昭和の辰悦丸が、北前船ゆかりの港を結ぶ航海に乗り出したのだ。淡路島の津名港を発ち、北前船時代の港だった18港に寄港して江差に無事到着した辰悦丸はその後、函館に入港する。星野さんの写真には、その様子をとらえたカットもあるが、一昨年に制作した星野さんの写真集『あのころの函館を旅する 昭和40年...
2022.03.19 03:58デジカメその後も、写真の変化コニカ、ミノルタというカメラの老舗ブランドも今はない。両者は合併し、カメラ事業から撤退した。ペンタックスのブランドは残るが、会社としてはリコーに統合されている。いろいろ事情はあるのだろうが、フィルムからデジタルへという流れが要因となったことは間違いなかろう。デジタル時代に突入後も残ったカメラメーカーには、「稼ぎ時」が続いていた。百花繚乱のごとく送り出されるデジカメ新製品が市場を賑わせ、写真好きを増やし、メディアの注目を集めていた。あに図らんや、そこにスマートフォンが登場。あっと言う間にデジカメ市場は縮小し、経営を揺るがされるメーカもあった。それ以後も、写真を取り巻く変化はとどまらず、「自撮り棒」なるものが登場した。インバウンド全盛期には、どっちを向いて...